特集|いちねんを整える食事

いちねんを整える食事。
明日への元気をもらえる食事。
ここだけの、特別の、そして無上の楽しみ。

「伊勢が呼んでいる気がするから今日行く。」

(また脳がアレしたことを言い出したああどうして俺はこんな女と結婚してしまったんだろう)と、振り返った夫の顔には明らかに書いてあるが、気にしないことにする。
旅のスタートはこんな動機であった。

当然どこに向かうかも決めていない。そもそも何があるか調べてもいない。
行きがけのサービスエリアで片っ端から宿に電話を掛けつつ、湾岸道を西へひた走る。
天気だけは最高の秋晴れ…

ではなく、「なぜ外出した?」と思うほど、季節外れの土砂降りである。
夫は平素、出家でもしたのかと思うほどの菩薩系男子であるが、その夫の横顔にもさすがに明王の色が見え始める。
まずい。
仏の顔は何度まで持つだろうか。

やっとのことで見つけた民宿に向かう道中、目に入ったのはサブリミナル効果のような某伊勢名菓の電柱看板と、海産物直売所、そしてその側に山積みにされた灰色のもの…

大量の貝でできた塀、である。

塀というより塚に近いものか。まさに文字通りの貝塚である。
現地の方に申し訳ないほど本当に何も調べていない不届きものにとっては、この時点ではこの塚の意味が、まだ全くピンと来ていなかった。ただただ圧巻である。

その理由は宿で判明する。
受付に置かれた一枚のチラシの、心躍る見出し。

「浦村かき 食べ放題」。

見た瞬間これだ、呼ばれたのは。と思った。同時にあの貝塚の理由も。
この町、三重県鳥羽市浦村町は、牡蠣の名産地であった。(だから、なぜ調べて来ない…)

失礼を承知で言えば、貝類=「おなかを壊しがち」というイメージ。
そのせいもあってか、特にたくさん食べる男性は、貝類から遠ざかる傾向があるような気がする。
現に夫も貝類は苦手である。
「かき」の文字を見ただけで案の定、躊躇していたが、なんと三重県の牡蠣は、殺菌海水による浄化が行われているというではないか。

こうなると話は違ってくる。これは安心して新鮮な牡蠣が食べられるのではないか…!?
しかも牡蠣販売のシーズンは始まったばかり。まさに呼ばれたとしか思えない。
もとより牡蠣好きの私はもちろん、夫も前のめりで翌朝、向かうことにする。

幸いにも予報は晴れだ。生浦湾を眺めながらパールロードを走る。
この道の先には牡蠣小屋が立ち並ぶ。
湾をつなげるように美しい橋が架かり、この旅を歓迎されているかのようだ。

いちねんを整える食事
いちねんを整える食事

海に浮かぶいくつもの牡蠣養殖のいかだが見える。
季節はもう秋も深まっているが、なぜだろう、伊勢にはいつも懐かしい「夏」を感じる。
漁師町に育ったわけではないのに、何とも言えない郷愁を覚えるのは、日本人の性だろうか。

行先は決めていた。「浦村かきの英治丸」。
焼き牡蠣をその場で、1個100 円(※当時)から、食べたいだけ注文できるという。
これは行くしかないでしょう!

湾を見下ろす高台にその店はあった。
すでに牡蠣を焼く煙が上がり、いやがおうにも期待が高まる。
前面に開けた入り口付近にいくつもの食事机が並び、一足先に舌鼓を打つ人の笑顔が見える。
矢も楯もたまらず早速注文し、いそいそと牡蠣が焼けるのを待つ。

いちねんを整える食事

いちねんを整える食事
いちねんを整える食事

待つ間、次から次へと観光バスがやってくる。
振り返れば入り口横には、牡蠣詰め放題のスペースが。
焼き牡蠣だけでなく、直に触って詰められるというこのサービスもまた楽しい。
牡蠣を焼く店員さんの活気ある姿、漂う磯と煙の香り、直売所のにぎやかさ。
まさに、漁師町ならではの空気だ。

いちねんを整える食事
いちねんを整える食事

いよいよその一皿が運ばれてくる。
これは…

いちねんを整える食事

文句のつけようのない、「百点満点の焼き牡蠣」ビジュアルである。
立ち上るこうばしい香り。殻からあふれるばかりの汁をまとった、丸々とした身。
いかにもやわらかそうな白く輝く姿。海の宝石とはまさしくこのことだ。

いちねんを整える食事

この出会いに感謝しつつ、震える身をゆっくりと口に運ぶ。

あ      あ     ・・・


  い
    し
        い ・・・・・・

「芳醇」という言葉はこの牡蠣のために作られたのではと思うほど、口いっぱいに広がる牡蠣の甘み。

思わず、この一年で楽しかったこと、辛かったことが押し寄せ、涙がこぼれた。
ああ、これを食べるために自分は頑張ってきたのだな…となぜかしみじみと感じた。
この牡蠣を育てる生産者さんのご苦労、愛情が伝わり、胸が温かくなる。
ふとみれば夫の仏の顔もすっかり回復している。これで向こう一年は持ちそうである。
たまらず追加で一皿、二皿…
大ぶりの牡蠣を30個は軽く平らげた。

いちねんを整える食事

いちねんをリセットし、心を整とんし、また次への活力を得る。
まさしく一口でそんな効果をもたらす味だ。
気分転換や切り替えの方法は数あるが、一度の食事によってこんな気持ちになれるとは思いもしなかった。
限られたこの季節にだけ、ここでしか味わえない、最高の贅沢。
自分の新しい一年は、この食事からまた始まるのだと、強くそう感じた。

…ちなみに帰りの道中、せっかくの伊勢うどんをしるこやに置き忘れ、早くも仏の顔を一つ使ってしまった。先が思いやられる一年である。

いちねんを整える食事

「英治丸」の焼き牡蠣は1個から、時間無制限で、好きな数を好きなだけ注文可能。
このほか、生食用の殻付き牡蠣やむき身、佃煮の直売、ネット販売も行っている。
また、釣り船も経営されている。詳しくはHPを要チェック。
今期は11月1日(木)よりスタートの予定とのことです。
※値段・開店時期は生育状況や年により異なります。詳細はお問い合わせください。